昭和54年01月09日 朝の御理解
御理解 第4節
『此方金光大神あって、天地金乃神のおかげを受けられるようになった。此方金光大神あって、神は世に出たのである。神からも氏子からも両方からの恩人は、此方金光大神である。金光大神の言うことにそむかぬよう、よく守って信心せよ。まさかの折には、天地金乃神と言うにおよばぬ。金光大神、助けてくれと言えば、おかげを授けてやる。』
金光大神様のご信心によって、天地金乃神様のおかげを受けられるようになり、今日の合楽教会がございます。これは、私が朝の御祈念の時に申し上げる御祈念の一節なんです。ですから、これはみなさんの場合にもってこられたら、またもってこれれる信心内容になられたらいよいよ有り難いと思うですね。
「生神金光大神様、天地金乃神様ありがとうございます。教祖金光大神様のご信心によって、天地金乃神様の広大無辺な限りないおかげが受けられるようになりました」とお礼が申し上げれれるおかげを頂かなきゃいけませんね。天地金乃神様の限りないおかげに浴することのできれるおかげを頂きました。有難うございます。ね。「教祖金光大神様のご信心によって、天地金乃神様のおかげが受けられるようになった。
それも限りない、この様なおかげを頂けて」とお礼の申し上げれる時始めて、この御教えが生き生きとしてくるんじゃないでしょうかね。ただ今開封さして頂いたんですけど、昨日宮崎の日向教会の教会長先生お参りになって来た。もう帰られましたですか。夕べ帰られたんですか。があの奥様のからの託りの手紙をここに置いてございます。私昨夜ちょうど見とられませんでしたから、今ちょっと読ませて頂いたんですけれども。
まぁお正月の御挨拶を先にここに書いてございます次に、まぁこれはお礼のことだと思うんですけれども。こういうお礼が。「昨年十二月、親先生ご親筆にて、土の信心、水の信心に極まりますと頂きましてより、まったく不思議なほどに、一年中の様々な心の中のしこりが、氷が溶けるごとくきれいに溶かされてしまいました。年末年始の親教会参拝も、以前に増した有り難い気持ちでおかげをこうむれました。
何もかも、万事にお教会の上にもお繰り合わせをこうむり、先ずは幸せいっぱいのお正月を和やかに大御かげ頂かせて頂きました。一重に親先生のお徳の賜物と心から御礼申し上げます。去年、伊勢エビのお供えの意味は、生き締めと頂かせて下さり、最高のご修行のおかげをこうむらせて頂きました。今年はスルメでございましたが、どのような心構えで取り組ませて頂けばよろしゅうございましょう。お伺い申し上げます。
また今年の信心の目標に、是非とも私にも神様の御教え頂かせて下さいませ。楽しみにいたしております。合掌」例えば、教祖様の御教えをこのような姿勢で頂き、このような姿勢でそれを行じ、このような具合にスッキリとおかげを頂いて。そしてまあ言うなら、近年にない、有り難い幸せいっぱいのお正月を迎えさせて頂きました。もちろんそこにいろんなしこりがありました親教会の年末のお礼にも、年始の御挨拶にも、もう今までにない有り難い気持ちで参拝することができました。
去年は、元旦に伊勢エビのお知らせを頂いておられた。だから、「これは最高の修行だよ」とお先生から言われて、もうまさにそういうお年柄でございましたが、もうどんな修行の場合であっても、ここの場合は、くノ一修行ということを、自分で、大祭にお参りしてすぐ、それを言うならば、元旦に頂いた、生き締められておる、伊勢エビがね。それはもう神様のご神愛の現れなんだとまあ、みなさん、いつも頂きますから、ご承知でしょうけれども。
伊勢エビというのは、小さいこの箱の中に、いっぱいの伊勢エビを詰め込んで、そして、波の荒いところに投げ込んである。そして、十日も二十日もそこに置くその間を「生き締める」というんだそうですね。生き締めるということはどういうことかというと、そのように窮屈な中に、もう締められおりますから、んなら伊勢なら伊勢から、東京にも出るでしょう、九州辺りにまでも送ってくるんですよね。それでいて、ならお魚屋さんの店頭で、それこそあの、こう生き生きと這うことができる。
あれを生き締めをせずに送ったら、もう着いた時には死んでおるそうです。ね。だから、生き締められておると思うたら有り難かったという一年であった。それでもやっぱり苦しいことの続くのですから、その時あることのお伺いがございました。それけん私がこれちょっと、その便箋の裏に「もうね土の信心、水の信心に極まったんだ」と。「今もう合楽ではこれに極まっているんですよ」ということを一言書いてやった。
だからその生き締められておると言う事は分かっておるけれども、それが土の信心であり、水の信心である事が分かった時に、もうそれこそ一年中のしこりがスッキリとした、と言った様な事が書いてございましたね。その教えの一言一言がね、もう一年間行じられたり、教えによって次の飛躍が遂げられると言う位に、これはやっぱり本気で求めておらなければできることじゃないと思うです。ね。そしてなら今年の元旦に、正月には何でしたか、あの「スルメのお知らせを頂いた」と書いてありますね。
だから「スルメとはどういうことでしょうか」と問うてあるわけです。昨日おそらく、書いておられる方、まあ手紙ででも言うて差し上げなきゃならんと思いますけれども、スルメということはあの、みなさんもご承知でしょうけれども、この辺の言葉で「もう一期するめ」と言いましょうが。もうそれこそ、この頃から申しておりますように、気付かせて頂いたことを改まっていく、それが気付くこと、信心を気付くことだと。
「はあこんなことは、こげなことじゃおかげ頂かれん」と自分で気付いたことをです、もう「こげなことは一期するめ」という気になる。今年は神様が、そういうひとつの改まりを、なら日向の教会に求めておられるということになります。だからもう、頂いたらそれを守ろう。頂いたらそれを行じよう、ということになっておるということを、今日今の手紙で聞いて頂いたんです。ね。
自分の心が助かるということは素晴らしいことですよ。もうそれこそ、村八分というですかね、教会にも、隣接教会なんか全然、大祭にでも「合楽に参りよるから」と言うのでその、誰もお付き合いをしなくなられた。ね。それでも、まあ一心にご信心を、合楽の信心を頂こうと続けてまあおられる。ね。親教会からもみえて、そらもうさんざんな皮肉を言われたり、さんざんなこともあったんです。去年は。
けれども、そういうことなんかは、もうそれこそ水に流してしもうて、もう今までよりもっとましな有り難い心で、年末のお礼にも親教会に行けた。年頭の挨拶にも行けたとあるんです。そのへんのところがおかげです。これはもう、信心を行じてみなければ分からない心の状態です。そういう状態ですから、私は、親教会にも通わないはずはないと思うですね。親子教会を決して馬鹿にするのじゃない、ただ、信心を一心不乱に求めておるその、が合楽とのつながりということになったわけなんです。
去年一年の信心。そして年末年頭に感じさして頂くところのおかげの世界。それでなおまた今年は、神様から、ね、とくにスルメのお知らせを頂かれた。スルメとはどういうことであろうかと。もうそれこそ、改まらにゃ分からん、それこそ噛み締めれば噛み締めるほどの味わいのあるおかげが、今年、日向教会の上に現れてくることでしょうね。「金光大神の言うことにそむかぬよう」ならここで言うならば、「親先生のお言葉にそむかぬように」ということになるのじゃないでしょうか。
そのために、やはり求めて行じなきゃいけん。与えられる、そしてそれを行じなきゃダメです。ね。そこに始めて、心の眼も開けてくるし、心の眼が開けてきた時には、今まで難儀と思うておった難儀は難儀ではない、むしろサバサバとした、有り難い、今までに増した心の状態で親教会にもお礼参拝、お願い参拝ができるようになったということなんです。そして今年もまた、というのです。
昨夜の、まあ合楽の宴と銘打っての、私ども、一年間の、言うなら信心の指針にもなるようなものを、ひとりひとりの上に、神様は微にいって、細にわたってお知らせ下さいました。中には、商品が良かとえらい喜びなさる人がある。ね。はぁもう素晴らしい、私が昨日頂きましたものはね、神様の言うならばハートを貫くほどしのもので矢印を頂いた。するとその後に、また頂きましたものは、道しるべに矢印がしてあるでしょう。あの絵を頂いて、今年はこの道を行けよと示された方があります。
また、中にはね、それこそグサリと突き刺されるようなね、これでも分からんかといったような方の場合があったですね。去年もこれじゃったろうが。今年もこれで、もうこれで、もうこれ以上堪えんぞといわんばっかりの表現であったのがありましたよね。うん。もうそれこそ、これはひとりひとりの信心、まあ今後の自分の信心を練っていく上に、そのことを深く広く分からして頂くところに、いよいよ深い広い信心もできるし、言うならば、大きなおかげも約束されるわけです。
だから、例えば昨日頂いたことなどをです、もうただ一夜のものにせずにね、一年中の、お互い指針にされるようなお繰り合わせを頂かれたらね、私はあの、素晴らしい。今あの、日向教会の奥さんの手紙を読まして頂いたようにですね、例えば「どうぞ良かくじを頂かして下さい」じゃなくてね、「私がこれからの信心の目指しを頂かして下さい」という祈りを持って、みなさんも頂かれ、引かれただろうとこう思うんです。
ですからそれが大変難しくて、分らない難解なものがあります。だから、そういうのは、練りに練って、ほんとな指針を頂いて、そしてその指針をです、日々のいわゆる日参、教聴によって、いよいよ本当のものにしていく。例えば、家内が頂いております「生神への精進」これは、家内だけであってはならないのです。もう合楽の全部の人が、この生神への精進をなさらなきゃいけんです。
その生神への精進の手立てが、みなさんのひとりひとりが引き当てられたくじの中に込められてあるんですね。それがまだ分からんところは、その日その日の御理解も、やはり生神への手がかりであり、道しるべなんですね。でもう一つおかげを頂きまして、もう最高の、まあひとつの理想郷。信心での理想郷。ね。生神を目指すということ。なら私が引き当てましたように、それこそ「水も漏らさぬ信心」をさしてもろうてね。
どちらから読んでも「サンキュー、サンキュー」でね、言うならば「有り難い、有り難い」で頂きぬけられる境地を目指さして頂くということが、私は信心。「金光大神の言うことにそむかぬように」ということは、そういう道がちゃんと付いてくるんです。ね。まず滝口先生ではございませんけれども、ね、その、それを頂きぬかせて頂くという姿勢。それで、今年もおかげを頂いたから、来年もどういう、なら生き方にというたら、神様がちゃんと教えてござる。
また、それに取り組ませて頂けば、ね、去年よりも今年というようなおかげにも、ね。おかげの成長にも、信心の成長にもつながることになりましょう。ね。そういうおかげを頂いて始めて、「生神金光大神様、天地金乃神様有り難うございます。教祖生神金光大神様のご信心によって、限りない天地金乃神様のおかげが受けられるようになり」と、お礼が言えれるようになると思うんですね。
どうぞ。